森達也「FAKE」メディアが照らす光とその影
今更感がありますが、やっと森達也監督のFAKEを観てきました。
ユジク阿佐ヶ谷は初めて。
ポレポレ東中野や下高井戸シネマよりずっとこぢんまりしてて可愛らしい映画館ですね。
この日の上映は満席。これから観に行く人は少し早めに席を確保したほうがいいですよ。
以下感想(ネタバレ含む)
この映画を観てない人も「佐村河内守」という男が起こした騒動については知っているはず。
騒動後メディア露出を増やした《ゴーストライター》新垣氏とは対照的に、身を眩ませた彼がどのようにして暮らしているのか。あのゴーストライター騒動とはそもそもなんだったのか。
いくつかの「疑問」に、(佐村河内氏から一心の信頼を受けながらも)客観的な姿勢を崩さず冷静にアプローチし続ける作品。
だからこそ、観た人それぞれに答えがある映画だと思います。でもきちんと監督が見つけた「答え」は要所に散りばめられていました。
海外メディアの取材を受けるシーンなどは、かなり騒動そのものの核心に切り込んでました。
でもこの映画が伝えたいのはあの騒動や佐村河内氏のパーソナルではなく、「偏向報道とメディアリテラシー」という大きな問題。
メディアが一箇所を照らす時、その影でどれだけの人が傷ついているのか考えるきっかけになりました。
「テレビを作る人に、信念や思いなんてなくて、出てくれた人をどう面白くするかしか考えていない」
この言葉は、メディアに携わるものとしてささりました。
世の中には面白いけどギリギリいじっちゃダメな人が居て、そういうギリギリ感をプロレスで演じられるプロがテレビを盛り上げている。
でも佐村河内氏はそんな振る舞いはできなかった。新垣氏はそれができた。
その違いを、「キチガイ」と「天才」に振り分ける権利はメディアにあるのかな?
ないと思いました。