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産廃

思ったことを置く場所です

映画 「怒り」 自分の無力さへ



映画「怒り」を観てきました。
ネタバレを含むので観てない人は読まないで下さい。でも、観てない人は観て下さい絶対。絶対だ。

最初にこの映画のメインビジュアル(キャストがコマ割りでそれぞれ厳しい顔をしている)を見たときは、「暗そうな映画だな、湊かなえか?」という偏見を持った程度でした。

それが、どうしても観たい!と思い直したのは「妻夫木聡綾野剛が恋人役!濡れ場も」というゲスな見出しのネットニュースがきっかけでした。
恋人役を演じるにあたり、出会いのシーンを撮った日から実際に同居したという二人。お互いを本当に愛おしいと思うようになったと。

「ほぅ………イケメン同士の……濡れ場」

ホモが嫌いな女は居ません!という名言がありましたが、そんなに愛し合ってる演技なら観てみたいな、いや絶対観たいな。公開日に観るべきだと思うようになりました。




行ってきました。




そして141分の上映を終えた私の感想。
「あぁあぁあぁ…」
私は膝から崩れ落ち、TOHOシネマの床に寝てヤダヤダヤダーーー!!!と暴れ叫んだ。心の中で。


この映画には、「未解決殺人事件の犯人は誰なのか?」という謎解き要素があり、いちミステリー映画としても一流。

だが、それ以上に!!
心を閉ざした人間が愛を受けて懐柔されていく様子、
一方で愛する人を疑わなければいけない人間の心理描写!!

俳優さんたちの演技にうなるばかり。

広瀬すずってめっちゃいい表情できるのね。
宮崎あおいのことなめてました。
世界のケンワタナベ。
バラエティの時のキャラクター大嫌いだけど、愛しいよ綾野剛
人たらしだけと危うさが見え隠れする演技が至高の森山未來

どこにでもいるピエール瀧


そして妻夫木聡
妻夫木聡!!!
妻夫木聡!!!!!

いつの間に彼はこんなにいい俳優さんになったのでしょうか。
ブッキーは泣きの表情と演技が素晴らしい。
この涙が、どんな感情で溢れているのか、わからない。
そんな涙の理由を、理屈じゃなくて心に訴えてくる。

母親が亡くなるシーン
そして喫茶店から出てくるシーン

どちらも彼は泣く。
こみ上げてくるものを理性的に制しようとした前者と、感情を包み隠さず街中で泣いた後者。

大切なものを失った悲しみは同じだけれど、後者の涙には「怒り」がある。

「怒り」

タイトルにもなっている感情。どんな時に人は怒るのか。

「自分の力じゃどうしようもないことってあんじゃん?」

「わかる気のない人には何を言ってもわからないよ」

「男はいい。だが女はダメだ」

「戦えないよ。私そんなに強くないよ」

それぞれのキャラクターがどこかで諦めを経験している。自分の力じゃどうしようもないこと、生い立ちや疾病、性癖や世間の目。変えられない過去が苦しめる。そのたび自分の無力さを思い知る。

そして「怒り」へ。

長いトンネルのような閉塞感とともに進む物語は、最後までわかりやすく光を差し込んではくれない。
希望が見えないまま、それでももがいて生きていくであろう彼らのことを考えて、エンドロールで動悸がした。


最後の最後、
広瀬すずのあのシーンで物語を閉じたのは、
結局私たちはそうするしかできないということを思い知らせたかったからではないか。

絶対観てください。














明日はうんと遠くへ行こう/角田光代 読んだよ

明日はうんと遠くへ行こう

「主人公があなたに似ている気がする」と先輩に貸してもらった角田光代の「明日はうんと遠くへ行こう」を読んだ。

ろくに話したこともない同級生に大好きな曲を録音したカセットを渡し(しかもオススメの聴き方指南書付き)、「あいつこえーよ」と一蹴されてしまうような主人公、泉。

自分の世界に浸りがち。ロマンチックになりがち。恋心を育てすぎるあまり現実での行動が痛々しくなる。
「めんどくさい」。

もうこの時点で読んでいてツライ。私も余計なことを考えすぎて、いろんな恋をだめにしてきた。自分では哲学的に叙情的に思考しているつもりで、そんなセンスティブな自分が好きでもあって、「めんどくさい」「難しい」と罵るがさつな男なんて私に不釣り合いであるとまで思っていた時期もある。

でも泉は気づく。自分にはなにもない。そのときそのときの恋に溺れ、語彙を尽くして愛を語ったり不満を伝えたりして過ごした年月はなにも残してくれなかったと。
男が去った後の自分は、引っ越しで荷物を運び出した部屋のように、少しの床の傷だけを残してがらんとしている。

「筋肉みたいな、わかりやすい価値が欲しい」。

あーわかる。筋肉のような、誰が見ても一発で「良い」とされる価値が欲しい。女性なら大きな胸でもいいし細い脚でもいい。絶対的な評価を得られるものが自分にはなにもない。

部屋を間に合わせの安い家具や家電で埋めて、気づけば部屋に「私」がどこにもない。心も同じ。

そんな生活は、それでも最中に居る時は輝いているように思えるのに、突如として「なんて無価値なものに時間をかけたんだろう」と虚しくなる。

物語の最後に泉は少しだけ成長している。恋愛がすべてではなくなる。それは歳をとったからだと思う。

私も、この話は特別なものではないと気づく。
誰しもいつかは経験する物語。




テレビ的な価値観を茶の間はどう受け止めているのか?

こんにちは。

テレビ的な価値観を茶の間はどう受け止めているのか?というタイトルで書き出したので、今回はテレビの話です。

少し前から、芸能人の方が蔑称的に「素人」という言葉を使うことに敏感になってきたと思いますが、その通り。「玄人」ってなんなの?という話です。

芸能人を玄人とし、一般人を素人とするのが「カメラ前」だとして、
そのカメラ前での立ち振る舞いを受けて「素人さんだから仕方ない」とか「芸人(玄人)なのになってない」みたいな価値観って存在しますよね。

よくあるのが「トークが長い」「オチがない」みたいな、技術の指摘。それに付随して「放送事故やで」とか「カットです」というツッコミもよく発生する。

昔はそこまで違和感なかったのだけれど、急に「この人達は何を言っているんだ?」と思えてきてしまった。

例えば、普段は大学で講義をしているような専門家をスタジオに招いて解説してもらっている時、つい話が長くなってしまったり、芸人さんの”フリ”にうまく答えられなかった時に「ここは○○って答えんと〜!!!」みたいなツッコミでドッカーン・・・という流れが存在しますよね。そういうテレビ的なルールを茶の間に持ち込んでどうしたいの?と。

話が長いとか、編集点がどうのとか、カットされますよとか、「制作側の都合」のことを「感が悪い」みたいな扱いで罵って笑いにして…。そんなことをしているとまともな意見の専門家もどんどんテレビナイズされて、「頭の悪い主婦」というテレビが作った存在しないターゲットに向けてしか発信しなくなってしまう。

テレビは短いセンテンスで、インパクトのあることを言わないといけないみたいな価値観もうやめません?

本質を語るのに前置きが必要なら、それも含めて流しません?
話が難しいと視聴者が離れるってほんと?

30秒の世界で勝負するみたいなことやってると、世の中がどんどんダメになっていく気がするんです。

テレビに限らず、webの記事も過剰に太字で、写真で、大袈裟に、みたいなのやめません?

わかりやすく噛み砕いた情報や、凝り固まった価値観だけを発信しても誰も得しない気がするんだよなぁ。

「暗い」ことが認められない世界

こんばんは、スイートブールちゃんです。
突然ですが、私はよく「落ち着いてる」とか「年齢のわりに大人っぽい」と言われます。
でもその度に「暗くてごめんなさい」という気持ちで申し訳なくなってしまいます。

特殊な業界で働いており、それはもう体育会系ノリが蔓延する世界です。飲み会での一発芸大会はもちろん、日々の暮らしのなかでも「元気で」「快活で」「ノリがいい」ことが最重要視されます。

大きな声で、ハキハキと喋り、
呼び出されたら飛んでいき、
セクハラも笑って受け止め、
朝まで飲んでそのまま出社。

そんな世界です。

最初は頑張って理想の新入社員を演じていましたが、それも長くは続きませんでした。それは私が根本的に暗く、現実主義的であることが原因だと思います。

例えば、初対面の人と話すことが苦痛だったり、なんのオチもない会話が苦手だったり。

人と距離を縮めていく過程が楽しいと思えず、ひたすら苦痛であり、どうでもいい人とエレベーターで二人きりになった日には黙り込んでしまいます。無駄だから。

とはいえ、いざコミュニケーションが必要となった場合は自分の話をするか、相手を質問攻めにするか、天気の話をするかしかできません。

そんな自分が嫌になり、人と関わらずに済む仕事に就こうかと考えることもあります。でも、辞めるほどではないので続けています。

先の文書で、自分のことを暗いと書きましたが、実際に会ってみて私のことを暗いと思う人はそんなに居ないと思います。
浅いながら社会人として経験を積み、初対面の人とも二時間程度なら当たり障りのない雑談と上辺の話をすることもできるし、そのなかに少しの笑いを混ぜることもできます。
ただ、それがひたすら苦痛であり、終わったあとに大きなため息が出るだけです。

世の中には、そういう人が半分、
人と話す時に何も考えない人が半分いると思います。

ネアカとかネクラとか言われますが、二者の決定的な違いは「明るく振舞ったあとの行動」に出ると思うのです。
私は、初対面の人とそれなりに盛り上がって話もできるし、雑談と上辺の話で盛り上がることもできます。コミュ障とは違うんだろう、でもそのあとに一人でぼーっとする時間を必要とします。誰とも会わず、話さず、ぼーっとする時間でHPを回復します。ネアカの人はそんなことをせず、そのまま次の予定に移れるのではないでしょうか。

私はネクラとして、人とものすごく話した次の日は部屋にこもってバランスをとります。そうしないと次の日を穏やかに迎えられないのです。


ネクラは常に「自分が話の中心にいていいわけがない」と思っています。そのため、自分の話をすることに抵抗があり、結果相手を質問攻めにします。

常に自己否定をしているので、自分の話をすることが苦手です。そのせいで相手と仲良くなれなかったり、深いところで信頼しあえなかったりするのです。すぐに「こんど飲みましょうよ」と言える人のことを尊敬しており、羨ましく思っています。「私なんかが誘ってもいいのだろうか」、または「楽しませないといけないな」という気持ちが強く、それが相手にも伝わりギクシャクしてる気さえ。

世の中の半分ほどはネクラだと思いますが、そのネクラが許されない世界で働くとなんとも肩身がせまいです。

ほら、ネアカの方はこれを読んでも「????????」となるでしょう。でも「あーわかるわ」と思ってくれる人もいると信じたいものです。



映画「恋人たち」

初期衝動は忘れてしまったけれど、長い間「はやく観なければいけない」と胸のつかえだった作品。
先日下高井戸シネマでようやく観ることができた。

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初めての下高井戸シネマ

日本アカデミー賞の影響か、前に上映していた「母と暮らせば」もかなりのお客さんが入っていた。

「恋人たち」もかなり長い期間各地で上映されているにも関わらず、7割ほど席が埋まって上映開始した。

「希望と再生の物語」だというざっくりした情報しかないまま見始めたので、冒頭から中盤にかけての閉塞感と報われない出来事の連続にやや面食らう。

小さな積み重ねでできた幸せはある日突然奪われることもあれば、砂時計のようにゆっくり減っていくこともある。

妻を殺され日常を突然奪われたアツシと、
なんとなく結婚し退屈な毎日のなかで自分の価値がゆっくりすり減っていくことを感じながら生きていく瞳子

それぞれ救いを求めて、このクソみたいな世界で生きている。

事態は急展開することなく、むしろ終盤にかけてゆっくり下降していく。
ただ、絶望のなかにほんの一瞬だけ光が差し込むことがあり、遠泳の息継ぎのように心に酸素を運んでくれる。

「もっと君と話したいと思うよ」

「あめちゃん食べます?」

完全な救いになるには力が足りないけれど、無責任な励ましかも知れないけれど、そんな言葉だけで人はあと1日生きてみようと思えるんじゃないかな。

むしろ人生はそんな一瞬の輝きに支えられて、なんとなくいい感じにまとまっていくのかなと。

見たあとに力がふつふつと湧いてくるようなハートフルな映画ではないけれど、地べたに足をつけて、下を向いたり前を向いたりして生きて行かなければと思わせてくれる作品でした。









メンヘラは一生もの

ある女性のツイッターをフォローし始めてから憂鬱が止まらない。

彼女は二児の母であり、夫の両親と同居している。20歳の時にでき婚して以来、25歳現在まで専業主婦をしている。幸せな生活を送っているように思える。

しかし、彼女のツイートは以下のようなものばかり。

『あー、旦那早く寝て。旦那が寝ないとお酒飲めない』

『旦那に子供預けて飲みに行かせてもらったのに、約束の時間に帰れなくて始発の電車で号泣した』

『旦那のお金で食べて寝ての繰り返し。生きてる価値がない』

彼女はアルコール依存性を患っているらしく、毎晩お酒なしでは眠れない。子供を寝かしつけ、旦那と義両親が眠りにつくとキッチンで晩酌の準備を始める。ひとりでお酒に溺れ酔っ払っている時間だけが至福だという。働きもせず夜な夜な酒に溺れることを旦那に責められることもある。それでまた症状は悪化する。朝起きれなくて家族に睨まれる。子供を保育園に遅刻させてしまい自分を責める。

彼女は常に旦那と義両親の顔色を伺い、扶養される身でありながら浪費してばかりの自分を責めて生きている。

同情しているわけではない。アルコール依存性とはいえ、毎晩お酒を買い込んでくる妻のことをよく思わない夫の気持ちも分かる。俺の稼いだ金で毎日なにもせず遊んでいる。と思うのもわかる。

それでも、彼女の「私は夫の金で遊ぶ穀潰し」「母親失格」という自責の念を読んでいるとどうしようもなく辛くなる。そうかもしれない。でもきっとそうならざるを得ない理由もあって、それを誰も認めてくれない。

『子育てをしながら働くことは当然であり、専業主婦なら慎ましやかに暮らさなければいけない』という社会の意識。私もそう思っているけれど、子育てしながら働くことがどんなに大変かも知らないのに無責任かなぁとも思う。

妻として母として嫁として生きるってなんだろう。夫に養われるってどんな気分だろう。夫の両親と暮らすってどうなんだろう。

どれを想像しても絶望してしまう。

お酒もコンビニ弁当も控えて、野菜中心の食事。休みの日は子供とどこかに出かけて、何を買うにも夫の許可を得て。そんなの絶対無理だ。

だんだん彼女は未来の自分だと思えてきた。

自分の生活を保つので精一杯なのに、誰かのために生きるなんて無理。万が一結婚なんてしてしまったら彼女のようになってしまう。きっと私も「旦那早く寝て」と思ってしまう。

もし子供なんて産んでしまって、その子供が可愛くなかったらどうしよう。私は自分の子供のために生きれるだろうか。

そんなことを考えているうちにどんどん憂鬱になってきた。結婚は救いでもなんでもなく、また新しい苦しみを産むだけだと思えてきた。
抱えている悩みがあるかぎり、結婚してもそれは続き、また別の悩みが付加されるだけ。

そんなことないと誰か言ってくれ・・・。



ワリカンする価値もない飲み会

どうも、スイートブールちゃんです。

最近悲しい気持ちで飲み会から帰宅することが多くて、滅入ってます。
私は大体一回の飲み会で4000〜5000円/人 くらいを使うことが多いのですが、そのお金を支払うことで何を得たら満足かを考えました。

私が思うに、以下のうちどれかを得るためにお金を払って飲み会に出席しているのだと思います。

①美味しい食事とお酒
②会話の内容が興味深いものである
③出席することで人間関係が良好になる

まず「①美味しい食事とお酒」コレです。ランチのおよそ5倍の値段を出してする食事ですから、味にも満足したいし、量も食べたい。絶品というほどでなくとも、気兼ねなく頼める値段で美味しくお腹いっぱいになりたいですよね。
これはお店選びが重要なので、自分でいくつか良店を知っていれば失敗することはありません。

そして「②会話の内容が興味深い」。これは一見難しそうですが、恋人や好きな人とであればどんな会話も興味深く、一言一言が愛しいですよね。飲み会というのは好きな異性が居るか、気の合う同性がいれば楽しくなる。実はすごく単純にクリアーできる条件なのです。

最後に「③出席することで人間関係が良好になる」です。これは学生の時はなかなかありませんが、社会人にはよくある場面です。会社の上司と、取引先と・・・という「つきあい」で行く飲み会ですね。時間とお金を払うことでこの先の人間関係を円滑に進めていけるのであれば、たとえ①と②がクリアーできていなくてもそれは無駄な飲み会ではありません。

以上述べたように、3つのポイントがあり、このうちの一つでも満足できれば○、二つなら◎、三つなら☆といったところでしょうか。
一つもクリアーできない飲み会を×とします。

話を戻しますが、ここまで分かっていて私は×の飲み会を連発してしまいました。
一体どんな飲み会だったのか?
先に述べると「奢ってくれると思ってたらワリカン」と「気が合わない同性とのサシ飲み」が原因でした。

まず「奢ってくれると思ってたらワリカン」。これは、ワリカンなら飲まないような人と、「奢りなら…」という気持ちで飲んだ時に起こるハプニングです。
よく「奢られるのが当然と思っている女には奢りたくない」という男性の主張を見かけますが、「奢ってくれないならこの人と飲みたくもない」という女性の主張も聞いてください。

上司に無理矢理飲みに連れて行かれ、散々説教された挙句にワリカンを要求されたらムカつきますよね。
興味もない異性に誘われて飲みに行き、話を聞いてあげた挙句にワリカンを要求されたらもっとムカつきます。
奢ってもらうつもりなので低姿勢で居るだけで、ワリカンならもっと言いたいこと言ったのにと。

次に「気の合わない同性とサシ飲み」。これは女性特有の「今度ご飯行って語ろー(^^)」「マジでいこー!いつ空いてる?」という社交辞令が具体化してしまった時に起こります。
上辺だけでなんとなく付き合ってた人とサシで飲んだら全然話が合わないということです。
同性なので当然ワリカン。きっとその後も上辺だけの関係が続き、この飲み会が今後の人間関係でプラスに働くことはないでしょう。


そんな悲しい飲み会を経て、今後の決意

・「奢りなら行きたい」という飲み会にはそもそも行かない
・社交辞令で「飲みましょ〜」と言わない


この二つを守り、無駄な出費をなくそうと思います。